ついに団体交渉が始まった

前回の記事では、人事部長との面談の場で入館証を取り上げられ、会社からロックアウト解雇された時の詳細を書かせて頂いた。

私はロックアウトされる直前に、ユニオンが作成した団体交渉申し入れ書を手渡し、その回答を求めたのであった。

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気が全く休まらない自宅待機期間

1ヶ月間に渡る恐ろしいPIPの責め苦で、私の肉体と精神はボロボロになっていた。

その上、入館証も何も失って、私は自宅待機をせざるを得ない立場になっていた。

だが、それは有給休暇などと違って、全く気が休まらない休み期間であった。

なぜならば、自分の今後の人生が、会社の回答いかんに掛かっており、しかも会社はまったく回答する気配がなかったからである。

団体交渉申し入れを無視する会社側

そして、回答期限の1週間が過ぎたが、会社からは何の音沙汰もなかった。

「ああ、あとは裁判しかないのか。

勝つか負けるかも分からない何年間もの裁判に身を投じるしかないのだろうか…」

私は半ば絶望に似た、全く先の見えない人生の暗闇の中に放り出されていた。

しかし、ユニオンの人は果敢に挑んでくれた。

「では、相手に電話で回答を催促してみます。」

私はそれに賭けてみることとした。

慌てて参加を回答してきた会社側

すると、その電話の場で人事部長は

「明後日、交渉に参加します」

という回答を寄せてきたのであった。

私は、永久に無視されるかと思っていたので、まさにそれは青天の霹靂であった。

しかし、それはまた私に別の大きな不安をもたらした。

「ああ、どうせ、交渉に形だけ出て、解雇は撤回しないに違いない…」

そんな不安の中、私は団体交渉の日に、ユニオンの事務所に向かった。

1時間前に事務所に着いた私は、綿密にユニオンの人たちと打ち合わせを行って、心の準備をした。

驚くべき会社側の発言

予定の時間にユニオンの事務所に乗り込んできたのは、あの私に解雇を通告した人事部長本人ではなく、人事部のヒラの課員2人であった。

私は、てっきりあの黒幕の本人が乗り込んでくるものだとばっかり思っていたので、少し拍子抜けした。

ユニオンの人が

「今日は、後で言った言わないということがないように録音をさせてもらいます」

と言って、机の上にICレコーダをセットすると、会社側の人間も

「では、私達も録音させて頂きます」

と言って、ICレコーダをセットした。

そして、交渉が始まったのだが、開口一番、彼らは信じられないような言葉を口にした。

「いったい、解雇って、何の話ですか?

私たちは、安達さんを解雇するだなんて、一言も言っていません。」

それは事実上の解雇撤回宣言だった

私達は狐につままれたような気持ちになって、

「人事部長は確かに30日後に解雇するといって入館証を取り上げましたよ」

と何度も言ったが、彼らは

「いや、それは何のことですか?

単に手続き上の話です。」

などと訳の分からないことを言って、最後までごまかすような発言に終始した。

「入館証を取り上げておいて、何が手続き上の話なんですか?これを解雇と言わずして何と言うんですか?」

とユニオンの人は厳しく追及したが、彼らは、

「いや、いろいろありまして、手続き上、そうなったんですよ、あはは」

などと変な回答をひたすら続けた。

そんな訳の分からないやり取りが15分ほど続いた後、私達は会社側が事実上、解雇を撤回しようとしていることを確信するに至った。

そこで、ユニオン側は

「では、次回の交渉の場では、復職の条件について話し合いましょう。」

と話すと、会社側は

「復職も何も、こちらは解雇するつもりなんて毛頭ないんですから、いつでも安達さんが戻ってくるのを待っておりますよ。」

と、まるであの解雇通告面談などなかったかのような発言をして、事実上、復職を認める意思を表示したのであった。

会社は解雇の隠蔽工作を始めた

そして、2週間後に再度、ユニオンの事務所で交渉を行うことを約束して、30分ほどで団体交渉は終了した。

会社側の人間が退出した後に、ユニオンの人は状況をこう説明してくれた。

「会社側は、まさか安達さんが団体交渉まで持ち出してくるとは全く予想していなかったんだよ。

おそらく、法務部とか顧問弁護士とかと相談して、『解雇はまずい』と言われたから、慌てて解雇予告はなかったものにしようと方針を変えたに違いないよ。

まあ、いわゆる下手な隠蔽工作みたいなものだね。

これは勇気ある安達さんの行動で勝ち取った成果だよ。」

私は何とも不思議な気持ちになったが、とにかく会社の180度翻った姿勢を見て、労働組合や団体交渉(これらは憲法に明記された権利である)の力の大きさを改めて実感したのであった。

再び不安な自宅待機期間へ

それから2週間、私は長いような短いような自宅待機期間を再び過ごすこととなった。

彼らは交渉の場で「解雇って何のことですか?」とはぐらかしていたが、入館証を取り上げられた状態は何も変わりがなく、出社は相変わらずできなかった。

なので気持ちは休まることはなく、いつ解雇を通告されるか分からない、次の給料日には給料が払われないかもしれない、という不安は消えることがなかった。

私は、そうやって過ごしながら、ついに2週間後の団体交渉の日を迎えたのであった。

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